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2025年7月27日・年間第17主日(C)

創世記18.20-32・詩編138.1+2ab,4+5+7d,8・コロサイ2.12-14・ルカ11.1-13

私たちは、神さまの戒めを実践することによって、キリスト者としての信仰を生き抜くことについて黙想し続けています。私たちは、神さまのうちに生きること、そして、常に神さまの愛は、隣人への愛から成り、また、隣人への愛と同等のものであると教えられてきました。私たちのこころの芯にふれる神さまのみことばは、私たちがもっと思いやりがあり、いつくしみ深いものとなるようにと導いてくれます。イエス様の教えに注意深く耳をかたむけることによって、特別な恵みが与えられます。私たちは、人びとの望んでいる事に対して、自然に、そして、すぐに応えるようにと形作られ続けているのです。私たちが学んできたそれぞれの教えは、私たちがたびたび自分たちひとりひとりのために、そして、個々の目的のために作り出した、日々の使命に対して柔順であるようにとしています。隣人に対して柔軟であれという招きは、確かに本物のキリスト教的信仰(キリスト者としての信仰)への招きです。私たちは、早急な配慮と助けが必要な隣人たちを故意に無視する度に、怠惰の罪(無関心の罪)を犯しています。私たちは、むしろ利己的な手段や予定を選んでしまいます。

 

神さまは、私たちの犯したたくさんの怠惰の罪を赦し続けて下さっています。私たちは、自分で口にした言葉を全うするのを怠り続けているにもかかわらず、神さまの恵みのうちに生き続けています。

 

今日の朗読は、罪の赦しと、執拗に祈る事への招きについて書かれています。罪の赦しについての教えは、神さまの愛といつくしみに根づいた、神さまからのもうひとつの贈り物です。あなたもわたしも、毎日、秒刻みで罪を犯しています。けれども、私たちがたびたび犯す罪よりももっと大切な神さまの愛といつくしみは、罪のために自分たちが無力で、地獄へ行くという考えを取り除いてくれます。いつも、絶え間ない赦しと免償、そして、いのちを与える恵みがあるのです。

 

同時に、罪の赦しの教えと共に、執拗に祈ることへの招きがあります。私たちがミサの中で交し合う「平和のあいさつ」の前に司祭が唱える祈りの中に、素晴らしい祈りがあります。

 

    「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。

      わたしの平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える

     主よ、わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み

     おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください。

 

創世記18章では、アブラハムがソドムを滅びから救うために、どのように執拗に嘆願したのかを、私たちは学ぶ事ができます。アブラハムは、同じ場所に住む小数の罪のない人々のことを、深くこころにかけていました。神さまは、アブラハムの執拗さを感じ取ってくださいました。その場所にほんの少ししか罪のない人々が住んでいなくても、その町全体が滅びから救われたのです。

 

今日の福音朗読では、イエス様が弟子たちにどのように祈ればよいのかを教えて下さったことが書かれています。私たちが何世紀にもわたって祈り続けている、ルカによる福音の「主の祈り」の縮約された祈りを、今日の私たちは唱えています。私たちが自分に負い目のある人を赦すように、神さまが私たちの罪をお赦しくださるようにと、私たちは、執拗に祈ります。相手を赦さない心が生じないようにすることを私たちに思い起こさせ続ける、とても美しい主の祈りの一節です。

 

イエス様は、執拗に祈ることを強調され、そして、神さまは必ず応えて下さるということを私たちに保証してくださいました。イエス様は、天の父は、望む人に必ず聖霊をお与えになるという事を、はっきりとお示しになったのです。今日の福音朗読の最後では、私たちの常識が求められています。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者にどれほどたくさんの聖霊を与えて下さるでしょうか?」