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2025年7月13日・年間第15主日(C)

申命記30.10-14・詩編69.14,31+33,36abc+37a・コロサイ1.15-20・ルカ10.25-37

私たちがミサに与るために教会を訪れるすべての日曜日には、みことばの典礼を祝うためにじっくりと考えるための明確なテーマが、常になくてはなりません。聖書の朗読は、その時に初めて聞くものではありませんが、私たちの日々の生活での経験において、まったく新しいものとなり得ます。例えば、福音の一節は、初めて耳にするものと感じられ、それ故に、私たち一人ひとりにとって、その日のための神さまのみことばとなり、今ここで、私たちへの神さまからの呼びかけが明らかにされます。司祭の説教は、もちろん時間の長さや表現に係らず、いかにして神さまのみことばを、私たちのこころに届かせるのか/響かせるのかという事への助けとなります。

 

今日の朗読は引き続き、私たちが信仰のうちに生きる事を行動に移すようにと勇気付けてくれています。第1朗読では、信仰を実際に生きるという事は、心を尽くし魂を尽くして、神さまの戒めと掟に従う事を意味していると、私たちに理解させてくれます。モーセは、人びとに神さまの戒めに従うという事は、遠く及ばぬものではないと語っています。つまり、神さまの戒めに従うという事は、人びとにとって不可能な事ではないのです。神さまの戒めは、もうすでに人々に手渡されて(隠されたものではない)います。私たちは、すでに神さまの戒めを受け取り、私たちの日々の生活の中に、そして、人類の日々の交わりの中に、(私たちの日常生活から離れたものではなく)深く繋げているのです。ですから、神さまの戒めは、知る事も理解する事も難しいものではないという事です。戒めの源である神さまへの私たちの信仰は、もう隠されたものではなく、すでに私たちの内にある戒めに最善を尽くして従おうとする時に、良い生き方ができるようにとしてくれるのです。

 

第2朗読では、目に見えない神さまのお姿である、主イエス・キリストについて書かれています。イエス様は、目に見えない神さまの啓示なのです。イエス様は教会の頭であり、十字架の御血によって、万物をご自分と和解させられました。この大いなるメッセージは、回心、罪の赦し、感謝、そして、思いやりと心配りに根づく本当の奉仕を示しています。

 

福音朗読にあるサマリア人の旅人についての話(善きサマリア人)は、他者に対して隣人であるという事はどういうことなのかを教えてくれています。この物語は、その人の隣人を愛するという事は、相手が誰であってもいつくしみを示す事だと語っています。ここで、私たちは、自分の隣人を愛するという事が神さまの戒めの中で、とても大切なものである事に気付きます。どのようにしたら永遠の命を受け継ぐことができるのかと尋ねた律法学者に対して、イエス様はお応えになります。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。

 

追いはぎに襲われた人に対して、何もしなかった祭司やレビ人と比べて、一目見て憐れに思って近づいていったサマリア人の旅人は、追いはぎに襲われた人の隣人となります。「一目見て」という言葉は、私たちの今日の黙想のヒントとなり得る重要な言葉です。どんな事でも「すぐに行動する」という事は、半死の状態で取り残された追いはぎの被害者に対してしなくてはならない事です。サマリア人の旅人は、いつくしみを持って追いはぎの被害者に接したのです。

 

 

それぞれの忙しそうにみえる生活は、自分の隣人が求めている事にすぐに応えるのを妨げるかもしれません。私たちはたびたび、自分もすぐにしなくてはならない事や最優先事項があるからと、自分を正当化します。そのために、たびたび自分たちのそばにいる苦しんでいる人々を見る事をしません。確かに、自分たちの優先事項にはない何か、または誰かを選ぶのは難しい事です。けれども、今日の黙想が、私たち一人ひとりに、自分の周りで何が起きているのかという意識を持ち続ける事、そして、何かが起きた時に自然に奉仕する事へと導いてくれますように。神の民は、自分たちの隣人に対して、即座に思いやりと心配りを持って接することができる時、神さまへの信仰神さまの戒めに対する忠実さ、そして、生活の中でのイエス様の中心性をはっきりと示すことができるのです。