列王記上17.10-16/詩編146.1+2+10a,6c+7,8ac+9bc/ヘブライ9.24-28/マルコ12.38-44
イスラエルの神、主はこう言われる。「主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。」列王記上17.14
今日の朗読は、再び、本物のキリスト者としての生活を送るために、心を燃やし続けさせるよう勇気づけてくれる、もうひとつの源となります。私たちは、神さまのことを考え、行動し続けるようにと告げられ、招かれています。キリストの弟子となるために、皆で、心を開き、自分自身のすべてをお捧げしましょう。イエス様の弟子たちは、いつも意欲的で、イエス様の生きざまに喜んでついていきます。いつも私たち一人ひとりの意欲や熱望は、神さまとイエス様の生きざまが唯一の安心の源であるということを、本当に理解できるように導いてくださるようにと望んでいます。そうして初めて、私たち皆が待ち望んでいる、ほんとうのしあわせや平和や安心を、私たちは見出すことができるのです。
確かに、私たちは、浅はかな見た目の美しさや外観よりも、人間のほんとうの意志に対して感謝するという招きには馴染みがありません。イエス様の時代の律法学者やファリサイ派の人々についてよりも、特に私たちがよく考える必要があるのは、私たちの社会や共同体の中に(中心に)律法学者やファリサイ派の人々のように生きている人たちがいるという事に、私たちは、気付き、よく知っているという事を、私は信じています。同時に、私たちがよく考える必要がある事は、私たちのこころの中に、確かにファリサイ派の人々が存在しているという事です。何人かの人々は、隣人たちを犠牲にして、自分達のために、この世の物を貯えたり、手に入れたりする事に、過剰に関心を持っているかもしれません。何人かの人々は、自分たちのアイデンティティの基礎として市民権や社会的地位、肌の色、等々に関心を持っているかもしれません。これらの事やその他の多くの事柄は、真の福音の証と宣言に対する明らかなつまづきです。私たちは、とても厳しい言い方をすると、確かに寛大さに欠けています。私たちは、神さまとイエス様の生きざまを愛していると宣言する一方で、同時に、宣言したことを破っているのです。
今日の朗読の中に、寛大な人々についての具体的な例えがあります。第1朗読では、食糧がわずかでありながらも、預言者エリヤの求めに応じたやもめの話が出てきます。イエス様の時代の社会では、やもめと孤児は最も貧しい人々とされていました。けれども、福音朗読に出てくるやもめもまた、彼女の信仰のうちに、寛大で純真でした。福音朗読の中の、その女性の信仰の深さは、その時代のいわゆる宗教的指導者たちの傲慢さと、明らかに対照的です。
私たちは皆、今日の福音朗読の中に出てくるやもめたちと自分たちを見極めるようにと招かれています。この話は、私たちのために命のすべてを捧げて下さったイエス様ご自身を象徴しています。イエス様の愛といつくしみが、私たち皆を、貪欲さや傲慢さや外見を重視する考え方から解放し、イエス様が望んでおられる生き方に近づくことができますように。