エゼキエル2.2-5/詩編123.1+2ad/2コリント12.7b-10/マルコ6.1-6
先週の日曜日に、多種多様な寛大さを通して、社会や大小すべての共同体、そして、家庭の中で、私たちは、いのちを生み出し、養い、育てる事ができるという事について黙想してきました。神さまは、いのちを生み出され、そして、永遠のいのちとなるようにとお考えになっておられます。ですから、いのちを破壊したり、じわじわと訪れる死から突然の死に至るまで、私たち一人ひとりにもたらすような冷え切った環境を造るのではなく、いのちを育てる真に温かな環境を造る事によって、私たちが、常にいのちを選び、昇華させるようにと招かれているのです。
無関心な人々や、冷たく排他的な人々の集まり、共同体、そして、社会は、すべてのいのちの源である神さまに反逆していると考えられます。私たちのまわりにある、これらの多種多様な姿をした無関心さに対して、私たちは対峙し、戦うための十分な勇気を持つようにと求められています。もしかしたら、私たちの小教区共同体が何をしているのか、各々の家族、親戚、友人たちの間で何をしているのか、言及するのはやりすぎかもしれません。今日の第1朗読で、反逆的なイスラエルと話をするようにと神さまに呼ばれ、力を与えられた預言者エゼキエルのように、私たちも、いろいろな姿をした、いのちを破壊している無関心さや排他主義を終わらせるようにと求められています。
ナザレのイエスの使命は、会堂で教え、人々に洗礼を授け、特に律法学者、ファリサイ派やサドカイ派の人々の目的や心を清める事でした。イエス様は、特に人々の神さまへの信仰、そして、イエス様に従う人々の信仰も強めるために来られました。イエス様は、弱いものを強め、病者を癒し、飢えている人々に食べ物を与え、死者をよみがえらせるために来られたのです。ナザレのイエスのこれらすべての「使命」は、大工の息子という社会的地位以上のものでした。ここで、隣人への関心の低さ、自分に対する過度な関心によってもたらされる、現代の無関心さと排他主義は、神さまの寛大さ(愛)といつくしみ(あわれみ)という福音の広がりを妨げているという事を、私たちに思い出させてくれます。
私たちのまわりのほとんどの人は、「この世」での価値を基準にして、他者よりも良くなるために、自分たちのすべての力と時間を費やしているかもしれません。実際に、無関心さは、上辺では成功しています。けれども、同時に、古い自分たちが大切にしてきたものや方法、排他主義や無関心さを終わらせようとしている人々もいます。彼らは、イエス様と同じ「使命」を共有しているのです。神さまのみことばを広めるために苦しみを経験しているすべての兄弟姉妹たちのために祈りましょう。特に、彼らが、自分の限界や弱さを見つけた時、日々出会う人々の温かさと出会う事ができますように。聖パウロは、キリストのうちにあるいのちの経験を、コリントの人々と分かち合います。彼は、自分の弱さと限界が表面的になればなるほど、イエス様の力が輝いている事を実感しています。私たちが、キリストのうちにあるいのちの経験をしようとしている人々のために祈り続けているのと同じです。ですから、私たちは、私たち一人ひとりのために祈り続けるのです。私たちは、神さまのみことばと、キリストの使命を広めるために人生を捧げている人々を、自分たちの共同体と社会が、もっと温かく迎え入れ/応え、真に受け入れるようにと祈ります。