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3月10日・四旬節第4主日(B)

歴代誌下36.14-16、19-23・詩編137.1+2、3+4、5+6・エフェソ2.4-10・ヨハネ3.14-21

 

共同体として私たち皆で、洗礼志願者のためにお祈りをつつけます。そしてこのご復活祭に洗礼の秘跡を受ける準備をしている私たちの兄弟姉妹たちのために祈るのも、今日で第2週目に入ります。カトリックの信仰を理解するための長い道のりを、洗礼志願者である兄弟 姉妹たちと共に歩んできた共同体の信徒たちが、すべての洗礼志願者たちのために勇気を持って歩み続ける事ができますように。



四旬節第4主日は、私たちが犯したすべての罪を認める事、そして、私たちの主であるイエス様を心の底から受け入れることができていないという事の容認の必要性について、もっと深く理解させてくれます。もしかしたら、イエス様についての真理の一部分だけを 取り上げたり、自分たちの個人的な都合や利己的な動機によって、イエス様について自分たちの好きな事だけを選ぶという事は、私たちのイエス様に対する愛が欠如しているしるしなのかもしれません。いわゆる利己的な計画や、浅はかな都合の良い目的のためだけに、私たちの意向を果たすための時間とエネルギーを使う事がありませんように。要するに、四旬節の心は、心からの悔い改めと、回心、心の中にある願望の明らかな変化、心からの奉仕への招きなのです。



たしかに、私たちは、一日の中で絶えず罪を犯して続けています。こうしている間にも、私たちは、繰り返し罪を犯しています。キリストの十字架上での犠牲によってもたらされた救いから来る恵みのすべてを、絶えず罪を犯してつつけている私たちは、理解したり経験したりする事は出来ないでしょう。同様に、この世の弱さからのキリストの勝利によってもたらされた恵みを、私たちは、他の人たちと分う事も出来ないでしょう。



「大きな転換」を引き起こし、すべての悪い習慣を捨て去り、更新されるのが延び延びになっている事への理解/考え方を見直し再検討するという事に対して、私たちは挑戦することができるでしょうか?日々の生活の中で「徹底したキリスト者の生活への純化」を受け入れる事を恐れてはいけません。



ですから、キリスト者として存在する事の目的を果たしましょう。全ての人々を受け入れ、社会の中での声なき人々に声を与え、貧困の中にある人々と共に生き、飢えに苦しんでいる人々には食べ物を差し出し、人を裁かず、誰の事も見下さず、傲慢と自惚れを控えましょう。これこそが、イエス様の真意であり、イエス様を受け入れるための数少ない方法のひとつなのです。