創世記15.1-6、21:1-3 ・ 詩編105.1+2、3b+4+5、6+7+8a+10b ・ヘブライ11. 8、11-12、17-19 ・ ルカ2. 22-40
みなさま、主のご降誕おめでとうございます。
信仰・希望・愛と平和がみなさまの家庭にありますように。
私たちが聖家族の祝日をお祝いする前、つまり待降節の最後の週、あるいは、クリスマスイブから、私たちの多くは、家族の問題について黙想し、話し合う傾向にあります。私たちが家族の問題について話し合う傾向にあるという事は、私たち皆が家族を、そして、家族の生活をとても重要だと考えている事を単純に示しています。ですから、家族が自分たちの社会での基礎になっている事を、私たちは真に認めています。
私たちは、飼い葉桶に聖家族、つまりイエス様とマリア様とヨセフ様のお姿を見出し、日々の自分たちや家族の生活が意味するものを見つけます。私たちが、マリア様とヨセフ様とご一緒におられるイエス様のお姿を見出す一方で、このクリスマスの期間は、私たち自身の家族の生活の質を振り返るのに絶好の機会です。クリスマスの期間は、私たちが考えている教会での聖家族、つまり「王の家族」の放つ光のうちに、地上での私たちの家族の生活をいつも見直すようにと、特に招かれている期間なのです。
同様に、私たちの小教区共同体全体は、聖家族の光のうちに家族を造り上げていくようにと育てられています。ですから、小教区共同体は、まさに私たち一人ひとりの家庭の中での家族と同じように、ひとつの家族となるのです。
「ひとつの小教区共同体がひとつの大家族となる」ということは、確かにシンプルで美しく、聖なる主の降誕の光景における、具体的で崇高な現れです。実際に、今の現代世界での私たちの教会には、それぞれの小教区と他のカトリック共同体と組織を、家族の存在が真に感じられる確かな家庭へと変えていく責任があると考え続けています。
私が司祭になって18年か19年くらいの時に、ある学校で、カトリックの家庭とカトリックではない家庭で育った子どもたちと交流する機会が一度だけありました。私は、校長先生から、それぞれの子供たちの家庭について話したり質問したりする時に、「両親」「お母さん」「お父さん」という言葉を使わないようにと厳しく言われました。子どもたちの中の何人かは、両親(お母さん、お父さん)のいない子どもたちがいるかもしれなかったからです。むしろ校長先生は私に、「それぞれの家庭で一緒に生活している人」という言い方をするようにとアドバイスされました。私は、クリスマスを迎えると、特にこの経験と、校長先生からのアドバイスを思い出します。確かに、小教区共同体の中にいる私たち一人ひとりは、信仰のうちに、共に旅をし、共に生きる人々です。私たちは、信仰によって両親に、兄弟に、そして、姉妹になることができるのです。
私たちのそれぞれの家庭の屋根を大きく広げましょう!