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12月17日・待降節第3主日(B)

イザヤ61.1-2a、10-11・ルカ1.46-55・1テサロニケ5.16-24・ヨハネ1.6-8、19-28

 

 

私たちの共同体の年配の方々は、待降節が悔い改めの季節であったことを、今も覚えておられるかもしれません。それは、イエス様が再びおいでになる時のための準備として、回心する事を求められていることが強調されていたからかもしれません。確かに、イエス様の再臨は、キリスト者としてより良い生き方をするために最善を尽くすうえで、私たちの希望となるより大きな出来事です。待降節第3主日は、待降節が満ち溢れる喜びのうちに待つための期間であることを、私たちに思い出させてくれます。ですから、待降節の間にイエス様の再臨についてのこれらの「出来事」があったならば、私たちが地上で生きている間に、神さまが私たちを導いて下さった場所に対して、しっかりと心を開き準備している限り、私たちはイエス様の再臨を待ち望み、喜びに満ち溢れることができます。

 



もうすでに待降節第3主日を迎えているので、喜びのうちに待つことを思い起こすことで、私たちは今、どのようにキリスト者としての生き方(キリスト者の喜び)をすべきなのか、つまり「いつも幸せであること」をもっと全面的に思い起こさせてくれます。ですから、私たちは皆、イエス様のご降誕というとても素晴らしい出来事と、その他のご降誕に関する素晴らしい事柄をお祝いするということを、深い喜びのうちに待ちわびているのです。



イエス様が人間として、同時に私たちの主として、私たちのもとにおいでになったことを、共に喜び、感謝しましょう。イエス様が、様々な貧困やその他多くの束縛から私たちを解放するために、本当に来てくださったことを、皆で喜び、感謝しましょう。もし、私たちが解放されていないのであれば、深い喜びへの招きに対して、まだ準備できておらず、心を開いていないという事を意味するのかもしれません。ですから、私たちは、どのようにして様々な束縛から真に解放されるのかをもっと深く掘り下げるために、再び洗礼者聖ヨハネの助けを借りるのです。ヨハネという名の人物がいました。彼は、世の光(イエス様)を証しするために来ました。ヨハネは、世の光ではありませんでした。彼は、世の光を証しするために来たのです。ここに、私たちは、洗礼者聖ヨハネとイエス様とのとても明確な関係を見ることができます。故に、私たちもまた、このようなイエス様との確実な関係を築かなくてはなりません。クリスマスの喜びは、私たちが真のイエス様を証しすることができる時にのみ、私たちのもの(本物のクリスマスの経験)となり得るのです。



私たちは、イエス様の証人となることによって、そして、イエス様と神の民とに謙虚に仕えることによって、また、解放という良い知らせを広めるうえでの私たち一人ひとりと信仰共同体としての役割をもっと理解することによって、イエス様と共に他の人々に喜びをもたらすようにと招かれています。洗礼者聖ヨハネとより近いかたちでの確かなアイデンティティと使命を築き、そして、自分たちのアイデンティティと使命に忠実であるという事は、必ず私たちに深い喜びと感謝をもたらしてくれるのです。