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11月26日・王であるキリスト(A)

エゼキエル34:11-12、15-17 詩編23:2+3、5、6 1コリント15:20-26、28 マタイ25:32-46

王であるキリストは中心におられ、

全ての私たちは集まり、ひとつになる。



  毎週日曜日のミサに与る事は、洗礼を受けた全てのカトリックの信徒たちにとっての義務であると、私たちは教えられています。けれども、日曜日のミサに与るカトリック信徒は、全体の50パーセントにも満たないというのが、多くの小教区での現実です。私たちは、一人ひとりのそれぞれの理由と共に、いくつかの共通した要因を知っておかなくてはなりません。「千個の希望」と深められる信仰によって、私たちは皆、神さまのみことばを聞き、キリストの御からだをいただく大きな共同体として、共に集まり、そして、私たちの信仰生活を真にお祝いします。ただし、私たちの現在の教会でのこの現実において、私たちは、私たちを包み込んでいる聖霊の働きを損なうことはできません。教会は生きていて、共同体のそれぞれの信徒たちは、私たち一人ひとりと共同体の生活、そして、それぞれの家庭の王として、すべてのものの上に座しておられるイエス様を、玉座におつけしています。



  私たちの違うところはさておき、共に働き、他の人々に手を差し伸べ、私たち皆がキリストのうちに集まり、ひとつになるよう召されていることの核心を見失わないようにしましょう。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20



  今日は、年間第34主日で、教会の典礼の最後の日曜日、王であるキリストの祭日です。私たちが耳にし、聴いたことを、皆でまとめてみましょう。私たちは、かつて私たちと同じようにこの地上を歩まれたイエス様の生きた証人であり続けましょう。イエス様は、ガリラヤ、サマリア、ユダヤの町を回られ、人々に教えを説き、癒し、慰め、解放されました。このお方がキリストであり、私たちの主であり、王なのです。



 

  より深く黙想するために、私たちは祈りに時間をかけ、勇気を持って立ち上がり、怠惰や凡庸、無関心であることを退け続け、特に飢えている人々や渇いている人々や貧しい人々、裸でいる人々、病気の人々、投獄されている人々に対して、私たちは愛の内に手を差し伸べます。また、いろいろな点で、神さまのみことばに飢え渇いている人々がいます。食べ物と飲み物は、羊小屋にたくさんあります。私たちは、他の人々を永遠に迷わせることをしません。どうして彼らが飢え渇くのか、どうして彼らが病気になったり投獄されているのかという理由は、ほとんどの場合、私たちが手を差し伸べるのを妨げるものですが, 愛の内に手を差し伸べる人々にとって、もはや問題ではないのです。