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11月12日・年間第32主日(A)

知恵6:12-16、詩編63:2、3+4, 5+6、1テサロニケ4:13-18、マタイ25:1-13

真に賢くて、思慮深い人々



  教会でのこの時期(教会暦の最後から待降節第2週までの間)に限るものではないかもしれませんが、私たちは、この地上での最後の時のための準備/用意をするようにと召されています。街頭やいろいろな場所で、人々に彼らのグループに入るようにと説いている他のキリスト教徒のグループ(カトリックではないキリスト教徒)さえあります。基本的に、終末が近づいているという考えに基づいて、彼らは人々を説得しています。同時に、彼らのグループの仲間になることによってのみ、一人ひとりが救われると納得させています。いくつかのグループでは、終末の具体的な日付の預言さえもしています。



  実際、私たちカトリック信者も、早く回心するようにと召されています。私たちは、いつイエス様が再びおいでになるかを知らないからです。何人かの人々は、それぞれの最終的な目的地は、自分たちの用意にかかっていると思っているかもしれません。この準備や用意は、私たちが地上において、どのように良い生き方をしてきたのかどのように賢くキリスト者としての生き方をしてきたのかということに絞り込むことができるでしょう。



  今日の福音朗読の10人のおとめのたとえ話によって、私たちの愚かさ/軽率さに陥る傾向に対して、真に賢く、思慮深い人間になるということはどういうことなのか、黙想するようにと招かれています。今の現代の世界が、特に人間関係や地位を築くことや社会の安全性の面で賢くあることを暗示していること以上に、キリスト者の生き方をしている真に賢い人々とは、イエス様のお導きに従って日々を生きる人々を意味しています。真に賢い人々とは、いろいろな意味で飢えている人や渇いている人、そして、社会の中での声なき人の立場に立って絶えずイエス様と出会い、イエス様を認めることで、日々、イエス様の存在と御顔を良く知っている人のことです。



  何が人々を真に賢くするのか、そして、何が人々を愚かにするのか、完全に明らかにするのは簡単なことではないかもしれません。私たちが今日まで大切だと考えてきたたくさんの事柄の中で、真に大切な事柄を見出すための正しく良い判断を、いつも聖霊が私たちにお与えくださいますように。福音からのメッセージを見出すことに対して、私たちの心が冷めていて中途半端で怠惰でいる間は、単純に素早く自分達のためにイエス様に「はい」と応えるだけで、誰も私たちの代表にはなれません。けれども、私たちは、お互いのための祈りの力を信じています。ですから、私たち一人ひとりが愚かさから解放され、審判の時に、天国にふさわしい者となるでしょう。