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9月17日年間第24主日(A)

シラ27・30-28・7、詩編103・3+4、8+13、11+12、ローマ14・7-9、マタイ18・21-35

すべてのいのちを守るための月間91-104日)



今日の私たちの短い黙想のために、答唱詩編のことばは、今日のその他の全ての朗読に対しての各々の理解が明らかになるための、とても基礎的な中継地点となり得ます。私たちは、私たちの罪をおゆるしくださり、悪い感情・痛み・悪意があるように思われる心のために破滅の危機にある人びとに、救いをもたらしてくださる神さまについての基本的な知識を与えられています。冷静さ、自制心、隣人への溢れる愛、心の平和、謙虚さなどすべては、私たちの癒し手である神さまの救いの業によって、絶え間なく溢れ出ています。これは、命あるすべてのものに対して、私たちを神さまの子どもとして、私たちの命をお守りくださる神さまの御業です。



今日の第一朗読と第二朗読の両方に書かれている強さと懇願は、自分のために死ぬことと主のために生きることという人生の目的を受け入れ、大切にするようにと私たちを導いています。私たちの憤り/復讐と怒りを宝物であるかのように持ち続ける(そのために戦う)価値のあるものとして維持しようとする傾向は、私たちのプライドとこの世の自衛本能ゆえに、人間の生活において、そして、被造物全体において、永久的に/継続的に繰り返し懸念されるのかもしれません。しかし、最終的な結果として、天国での交わりを悪くするかもしれないこれらの傾向に、私たちが屈してしまう時にのみ、私たちは罪びととなります



私たちは、プライド、嫌な気持ち、復讐へと駆り立てられる傾向を乗り越えた後に、自分自身とても傷ついたと考えるかもしれません。けれども、結局、とても傷ついたと感じるということは、心配することではないのかもしれません。私たちは、自分たちが神さまの傷ついた子供たちであると気づきますが、平静で真の平和のうちに生きることは、その価値を保ち続けるに値するほんの少しの宝物なのです。かつて、この地上を歩まれたイエス様もまた、他の人々の悪のために傷つかれました。イエス様は傷つかれましたが、神さまの救いのご計画の叡知によって癒されました。イエス様は、私たちの傷つかれた癒し主として、今もおられるのです。



私たちは、神さまの癒しとゆるしの受け取り手ですが、絶えず自分自身のために死に、神さまのために生き続けている私たちもまた、単なる受取り手としてだけではなく、神さまの愛から発せられ、溢れ出ているゆるしを与えるものとして召されていることを、私たちはよく知っています。



 

私たち皆が今日黙想したこと、知って理解したことすべてが、神さまへの信仰と信頼の現実での表れとなり、私たちの心の修練となりますように、皆で共に祈りましょう。