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7月2日・年間第十三主日 (A)

列王記下 4:8-11, 14-16A・詩編89.2+3, 18+19・ローマ 6:3-4, 8-11・マタイ 10:37-42

 

私たちのカレンダーのこの時期、教会のカレンダーの年間と呼ばれるこの時期に、私は、特に今日のような聖書朗読の箇所において、多分、畏敬の念を抱き、打ち震えて、とりわけ驚いてきたものです。今日の朗読を黙想した後に、私が自己中心的すぎるように思われるかもしれないと思いました。なぜなら、ほぼ20年の間、私がとにかく楽しんできた司祭の召命についての考えを、独り占めしているからです。今回は、司祭職に対する私の召命についての短いお話を皆さんと分かち合うつもりです。しかし、その前に、皆さんも自分自身について思い返し、私たち一人ひとりが語る(分かち合う)、独特でユニークな物語を持っていると、心から主張することを望みます。そして、思い返した後、私たち一人ひとりに多くの神秘的な方法で、確かに神さまが働きかけてくださっていることに私たちが気づくことができますように。

  私は、バタンガス州にあるマニラの南部の遠く離れた場所で、農業を営む家族と共に育ちました。子供のころから、両親と5人の兄弟姉妹の肉親しか居ませんでした。私は、私たちと同じように農業を営む近所での生活を、おそらく楽しんだことでしょう。とにかく、完璧な家族の躾をする故郷には、たくさんの良い思い出とあまり良くない思い出があったと、私は言えます。

  私の個人的な祈りの時間と黙想をしている間、今日の朗読と似たような聖書の一節に出会う度に、私の肉親は、司祭生活/召命に応えて決して妨げなかったと、いつも自信を持って主張する傾向がありますし、むしろ私の肉親は私のパートナーであり、サポーターであったと信じています。確かに、彼らは私の司祭としての心理的霊的成長の単なる証人以上の存在でした。

  私は、幼い時から司祭になることに興味を持っていました。家族の一人が、神学校のアカデミックスクールのために、私が「コインの袋」(たくさんのお金)を費やさねばならず、アカデミーを終了させるには、もっと賢くなければならないので不可能であることを、明らかに落胆するような言葉で話してきました。私は、とても若く無心すぎたので、そのことについて真剣に考えることができず、とにかく聞き流しました。

  高校を卒業してすぐに、私は、神学校の入学試験を受けました。家族の一人が、私が最初から合格しないであろうと知っていて、なぜ入学試験を受けたのかと、明らかに差別的な言葉で私に話してきました。私は、筆記試験を受けて合格しなかったとわかっていましたが、しかし、一か月後にはすでにフォーメーションハウスにいることに気づきました。

  神学校に入って11年目から12年目の時に、親戚の人が訪ねてきて、どんな不思議なことが私の頭に浮かんだのか、もちろん何も得られないであろう愚かな事に人生を費やす必要があったのかと訊いてきたのですが、このことについては私は何も言わずに、そのまま別れました。

  たくさんのことが起きて、もっとたくさんのことがこれからも起きるでしょう。多くの経験は、分かち合われ、もっと多くの経験が分かち合われるべきなのです。「信仰すること」において、慰めと寂しさは無数にあります。とても大切なのは、私たちの家族である信仰共同体との交わりを通して表される目には見えない神さまとの繋がりです。



私たちの召命・私たちの祈り

  私たちは皆、福音宣教のパートナー、サポーター、プロモーターになりましょう。私たちは、文化や肌の色を超えて、神さまのみことばを宣べ伝えましょう。イエス様を中心としている限り、私たちは皆、大きな家族と呼ぶことができます。そして、私たちは祈ります:私たちが、人生において異なった見方や価値観を持つ他の人々からの明らかに根拠のない進捗や落胆を経験する時、私たちを敵から守り、神さまのぶどう園に私たちの兄弟姉妹たちがいることを思い出させ、神さまと深い繋がりを持つことで、お互いに支えあう、ひとつの家族を創り出すための神さまの素晴らしい道具として、私たち兄弟姉妹たちをお使いください。アーメン

 

 

 

主任司祭: アルセ・エクソール・マグボー