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6月11日・キリストの聖体 (A)

申命記8.2-3, 14b-16a  ・ 詩編147.12+13,14+15, 18;19  ・ 一コリント10.16-17 ・ ヨハネ6:51-58

 

積極的にミサに参加しましょう


御からだの他の部分とも一致して

祭壇に信心深く近づいて

そして、パンの形を取られた真のキリストの御からだをいただく。

 

  今日の朗読の焦点は、私たちのミサ祭儀について、ご聖体拝領の時にいただくパンの形を取られた真のキリストの御からだについて、そして、キリストの御からだとしてのクリスチャン共同体についてです。私たちは感謝祭で、イエスキリストのうちに、――イエス様のご受難、死、ご復活を通して神さまが私たちの為になさったこと、お与えくださったことのすべてについて感謝のうちに覚えています。今日は、キリストの聖体と御血の祭日です。私たちは、神さまの愛がいつも働きかけて下さること、ご聖体をいただくことを通して、日々の生活の中で真理と感じられることを他の人々と共に分かち合い続けるようにと求められています。ご聖体をいただくことでの一致の実りが溢れるにつれて、私たちは共同体としての神さまの愛をお祝いするよう奮い立たされます。私たち自身が共同体であり、キリストの内にある交わりをお祝いするのです。言うまでもなく、ご聖体は、クリスチャン生活の中心になります。私たちのクリスチャン生活においてのご聖体の重要性は、ご聖体を通しての一致なしには、だれも献身的なクリスチャンであり続けることができないという真実と理解へと導いてくれます。私たちは、パンの形を取られたキリストの御からだをいただきます。ご復活されたキリストの御からだのすべては、一人一人がキリストの御からだの一部である、すべての生きているクリスチャン共同体のメンバーを心から受け止めてくださいます。

  今日の第一朗読では、イスラエルの民のために、どのようにして神さまが準備されていたかを思い出させるためのことばが書かれています。時々、思い出させるためのことばを使うのは、つまり私たちが真に神さまのこどもであるとよく考える時、それほど多くないかもしれません。ある人が、自分が真に神さまのこどもであると決意する時、私たちはいつも神さまの善を見て、気づきます。そして、私たちが持っているすべてのものが、神さまから来たものだと理解します。神さまの慈しみへの感謝の気持ちは、真の喜びと、真の奉仕を生み出します。神さまと神さまの御からだすべてと教会に仕えることを許してくださった神さまに感謝します!

  福音朗読では、カトリックの信仰にとってのご聖体の重要性を強調しています。キリストの御からだと御血をいただくことは、永遠のいのちにとって欠くことのできないことです。ミサの司式司祭は、実際に聖体拝領の直前にご聖体の一部をカリスに入れ、沈黙の祈りの中で「今、ここに一つとなる主イエスキリストのからだと血によって、わたしたちが永遠のいのちに導かれますように。」と祈ります。イエス様の肉と血は真の食べ物と真の飲み物で、これらをいただく人々は、イエス様の内にとどまり、永遠のいのちを持つのです。

  第二朗読では、パンとぶどう酒が単なる象徴ではなく、真にキリストの御からだと御血であることを強調しています。ご聖体の内にキリストの真の現存は、キリストの犠牲の深さをいつも思いださせてくれます。ミサに与る時はいつも、私たちは、常にこの究極の犠牲の証人であり、聖なるミサに与ることは、私たちがご聖体拝領がイエス様とだけではなく、周りの人すべてとの交わりであると理解する時、より意味のあるものとなります。

  真に生きているクリスチャン共同体(キリストの生きた御からだ)においては、多く人々が真なる健康と聖霊の導きを受け、共同体の霊的成長に貢献しています。ある人は癒しと助成を必要としている病気かもしれません。ある人は、疲れて、今にも諦めてしまおうとしているかもしれません。キリストにあって一つの御からだと言われているのはなぜでしょうか?キリストにあって一つのより良い御からだといわれているのはなぜでしょうか?私たちは、皆が団結し、お互いを愛している時、キリストにあって一つのより良い御からだとなることができます。私たちは、聖体拝領のために祭壇に誠実で信心深く近づく間、他の人の事を心に留めないことはできません。

 

 

  私たち一人ひとりが、一時間のごミサの後に一杯のコーヒーをいっしょうに飲みたいと思っていますが、真に私たち全員が集まるのに良い場所(単なる場所ではなく)と、教会の広場と会館に自由で快適にいられると真に招くことのできる雰囲気を作り出すことに皆で貢献しましょう。

 

 

主任司祭: アルセ・エクソール・マグボー