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4月9日 復活の主日(A年)

使徒言行録10. 34a, 37-43・詩編118・コロサイ3, 1-4・ヨハネ20. 1-9

みなさん、ご復活(ごふっかつ)おめでとうございます。

 

(かみ)さまの豊か(ゆたか)お恵み(おめぐみ)は、私たち(わたしたち)のように救い(すくい)(ぬし)であるイエス(いえす)(さま)信じる(しんじる)人々(ひとびと)にとって、栄光(えいこう)への入口(いりぐち)としての十字架(じゅうじか)イメージ(いめーじ)思い描く(おもいえがく)よう導いて(みちびいて)くださいます。私たち(わたしたち)(みな)イエス(いえす)(さま)栄光(えいこう)ご復活(ごふっかつ))に入る(はいる)ことで、信仰(しんこう)本当(ほんとう)意味(いみ)見つける(みつける)のです。確か(たしか)に、私たち(わたしたち)信仰(しんこう)イエス(いえす)(さま)ご復活(ごふっかつ)深く(ふかく)根ざして(ねざして)います。一度(いちど)逮捕(たいほ)されることを恐れて(おそれて)沈黙(ちんもく)し、弱腰(よわごし)になっていたイエス(いえす)(さま)弟子(でし)たちは、(こころ)完全(かんぜん)入れ替えて(いれかえて)イエス(いえす)(さま)復活(ふっかつ)されて彼ら(かれら)(とも)におられたことを証し(あかし)し始めます(しはじめます)私たち(わたしたち)も、私たち(わたしたち)時代(じだい)においても、イエス(いえす)(さま)復活(ふっかつ)された生涯(しょうがい)深く(ふかく)根差した(ねざした)信仰(しんこう)(しん)分かち合う(わかちあう)ようにと招かれて(まねかれて)います。私たち(わたしたち)信じて(しんじて)証し(あかし)し、信じて(しんじて)いる(こと)証し(あかし)している(こと)行動(こうどう)するのです。

 

私たち(わたしたち)は、ご復活(ごふっかつ)お祝い(おいわい)一度(いちど)だけのお祝い(おいわい)ではないことを覚えて(おぼえて)いなくてはいけません。私たち(わたしたち)教会(きょうかい)カレンダー(かれんだー)にそって、イエス(いえす)(さま)ご復活(ごふっかつ)毎年(まいとし)お祝い(おいわい)します...。「イエス(いえす)(さま)(おん)からだがかけられた十字架(じゅうじか)イメージ(いめーじ)」は、痛み(いたみ)不安(ふあん)不正(ふせい)差別(さべつ)、そして、その他(そのた)すべての不完全さ(ふかんぜんさ)経験(けいけん)している私たち(わたしたち)(みな)に、確か(たしか)にたくさんの慰め(なぐさめ)与えて(あたえて)くれるかもしれません。ただ、イエス(いえす)(さま)十字架(じゅうじか)にかけられたお姿(おすがた)見つめる(みつめる)だけで、私たち(わたしたち)(みな)生きる(いきる)勇気(ゆうき)見つけ(みつけ)、「(わたし)一人(ひとり)ではありません。」と単純(たんじゅん)言う(いう)ことができるのです。しかしながら、ご復活(ごふっかつ)(てつ)夜祭(やさい)典礼(てんれい)豊かさ(ゆたかさ)同様(どうよう)に、ご復活(ごふっかつ)喜び(よろこび)満ちた(みちた)お祝い(おいわい)は、私たち(わたしたち)日々(ひび)生活(せいかつ)イエス(いえす)(さま)十字架(じゅうじか)(なに)伝えよう(つたえよう)としているのか、もっと深く(ふかく)黙想(もくそう)するように招かれて(まねかれて)います。イエス(いえす)(さま)十字架(じゅうじか)は、(てん)御父(おんちち)への(栄光(えいこう)への)入口(いりぐち)のしるしなのです。イエス(いえす)(さま)がもはや十字架上(じゅうじかじょう)にはおられないということは、私たち(わたしたち)(いま)から受け入れよう(うけいれよう)としている十字架(じゅうじか)同じく(おなじく)十字架上(じゅうじかじょう)でのさらに深い(ふかい)意味(いみ)与えて(あたえて)くれます。「もはや十字架上(じゅうじかじょう)におられないイエス(いえす)(さま)」(復活(ふっかつ)されたキリスト(きりすと))は、私たち(わたしたち)信徒(しんと)生活(せいかつ)中心(ちゅうしん)となるのです。

 

    今日(きょう)朗読(ろうどく)では、私たち(わたしたち)祈り(いのり)生活(せいかつ)や、福音(ふくいん)証し(あかし)福音(ふくいん)生きる(いきる)ことの難しさ(むずかしさ)経験(けいけん)によって、私たち(わたしたち)栄光(えいこう)入られた(はいられた)イエス(いえす)(さま)生きた(いきた)証人(しょうにん)となること理解(りかい)させてくれます。私たち(わたしたち)は、苦しみ(くるしみ)中でも(なかでも)笑顔(えがお)通して(とおして)証人(しょうにん)となるのです。一度(いちど)(しん)笑顔(えがお)となる方法(ほうほう)()につけた私たち(わたしたち)は、自動的(じどうてき)キリスト(きりすと)(きょう)世界(せかい)加わります(くわわります)。これは、私たち(わたしたち)人生(じんせい)時期(じき)であり、「(かみ)御業(みわざ)()喜び(よろこび)祝い(いわい)喜び(よろこび)躍ろう(おどろう)。」(詩編(しへん)118)ということです。

 

    今日(きょう)福音(ふくいん)朗読(ろうどく)は、私たち(わたしたち)信仰(しんこう)生活(せいかつ)支える(ささえる)聖書(せいしょ)一節(いっせつ)定義(ていぎ)するもののひとつと考えられます(かんがえられます)十字架(じゅうじか)(はりつけ)イエス(いえす)(さま)時代(じだい)によく見られた(みられた)とても歴史的(れきしてき)出来事(できごと)です。イエス(いえす)(さま)ご復活(ごふっかつ)は、だれもイエス(いえす)(さま)ご復活(ごふっかつ)されるところを見て(みて)いないので、信仰上(しんこうじょう)出来事(できごと)です。初め(はじめ)(から)(はか)があり、それからは、すべてご復活後(ごふっかつご)(はなし)でした。私たち(わたしたち)(みな)持って(もって)いるのは、(から)になった(はか)記述(きじゅつ)と、ご復活後(ごふっかつご)記述(きじゅつ)ですが、マグダラ(まぐだら)マリア(まりあ)含む(ふくむ)イエス(いえす)(さま)弟子(でし)たちの行動(こうどう)は、()私たち(わたしたち)にとって最後(さいご)ではないことを教えて(おしえて)くれます。私たち(わたしたち)にとってすべての終わり(おわり)思われる(おもわれる)()よりも、新しい(あたらしい)いのちの可能性(かのうせい)大きな(おおきな)ものなのです。

 

    パウロ(ぱうろ)コロサイ(ころさい)への教会(きょうかい)への手紙(てがみ)は、イエス(いえす)(さま)栄光(えいこう)への入口(いりぐち)は、また私たち(わたしたち)(みな)がいつも(うえ)にあるものを求める(もとめる)ようにと招かれて(まねかれて)いる新しい(あたらしい)いのちへの入口(いりぐち)でもあるということを私たち(わたしたち)にも伝えて(つたえて)います。イエス(いえす)(さま)ご復活(ごふっかつ)恵み(めぐみ)受けて(うけて)私たち(わたしたち)回心(かいしん)育ち続け(そだちつづけ)(しん)文字通り(もじどおり)(ほか)(ひと)たちも到達(とうたつ)できますように

 

 

ご復活(ごふっかつ)お祝い(おいわい)しましょう。新しい(あたらしい)いのちをお祝い(おいわい)しましょう。

 

                                                                                                主任司祭 アルセ・エクソール・マグボー