エゼキエル37・12-14/ 詩編130・1+2, 5+6, 7a+8/ ローマ8・8-11/ ヨハネ11・3-7, 17, 20-27, 33b-45
四旬節第五主日
今日は、四旬節第5主日です。今日のミサでは、洗礼志願者のための三つの特別な意向の祈りのうちの最後の祈りがあります。聖週間の典礼が近づくにつれて、私たちは、洗礼志願者と共に祈り続け、病気やその他の苦しみや死などの現実の生活の中で、共に励ましを見つけるのです。イエス様のご受難と死について、この時期の四旬節の黙想でもう少し時間をかけ、イエス様のご復活が、私たちの小さな共同体やそれぞれの家庭、そして、今日の私たちの世界で起こっている絶望的に思われる事件/出来事への希望のしるしであるということを理解しましょう。今日の福音朗読は、ラザロの死からのよみがえりです。そして、イエス様は「私は復活であり、いのちである。」とおっしゃっておられます。
⑴ 第一朗読エゼキエルの予言では、神の民を墓からよみがえらせるという神さまの意向/理由について書かれています。それは、死人の骨であふれている谷がよみがえったという話で、つまり、罪と偶像崇拝のために死んだイスラエルが、神さまの力を認識して、神さまのうちによみがえったということのたとえ話です。神さまの彼らへの意向は、神さまこそ唯一の神であることを心から知ることです。
⑵ ラザロは、神さまのうちにあって、よみがえるすべての人々を象徴しています。もちろん、彼は、洗礼によって新しいいのちを得るすべての人々をも象徴しています。私たちは、次のポイントで黙想することができます。
(a) 洗礼は、新しいいのちへの入口であり、これは、これまでの古いいのちにおいては、救い主であるイエス様についての理解がなく、新しいいのちにおいては、キリスト様の心への深い理解があるということを意味しています。
(b) 日々の回心に招かれて、私は悔い改め、そして、いのちを取り戻します。
(c) イエス様の弟子として静かな時間の中で、神さまの永遠の慈しみと愛が、他の人やたくさんの場所でもっと知られているように、どうすれば、キリスト様のうちにある新しいいのちを、たくさんの方法で育んでいけるのか、自分に問いかけます。
⑶ 私たちの召命/召し出し:私たちの日々の興味を霊的な事や長く継続されていることに向けましょう。なぜならば、私たちは皆、古いいのちから新しいいのちへと高められ、私たちの関心は、もう物質的なものや、ブランド化されたもの、そして、それらに似たような多くのものに対してではありません。これらのことへの執着は、いのちのあたえ主であるイエス様から長く引き離そうとするかもしれません…この引き離そうとすることは、イエス様によるものではなく、私たちが自身で生み出したものです。
私たちは、いのちのない家庭や社会を持つつもりはありません。多分、私たちの自己中心さや利己主義は、長い間、隣人を傷つけていて、人間の苦しみや死を大いに増やしています。私たちは、死からいのちへと高めることに貢献していきましょう。イエス様が2000年以上も前に広めてくださった新しい社会を私たち皆が受け入れるよう、私たちは祈り続けます。憎しみや無関心の文化から立ち上がり、共に皆で働きかけましょう。私たちが福音の価値によって完全に生きることができるよう、眠っている心に命を取り戻しましょう。人々のいのちを取り戻すために、復活といのちであるイエス様を、もっと深く理解できますように。
主任司祭 アルセ・エクソール・マグボー