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3月19日 四旬節 第4主日(A年)

サムエル上16・1b, 6-7,10-13a/ 詩編23・2+3, 5, 6/  エフェソ5・8-14/ ヨハネ9・1, 6-9, 13-17, 34-38

()(じゅん)(せつ)第四(だいよん)(しゅ)(じつ

 

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今日(きょう)()(じゅん)(せつ)第四(だいよん)(しゅ)(じつ)です。今日(きょう)ミサ(みさ)で、私たち(わたしたち)3()つの特別(とくべつ)祈り(いのり)のうちの2番目(2ばんめ)になる洗礼(せんれい)志願者(しがんしゃ)のための祈り(いのり)をします。彼ら(かれら)(かみ)さまとの関係(かんけい)をもっと深め(ふかめ)イエス(いえす)(さま)受難(じゅなん)()復活(ふっかつ)によってもたらされた救い(すくい)をもっと深く(ふかく)理解(りかい)し、そして、個人(こじん)共同体(きょうどうたい)両方(りょうほう)生活(せいかつ)における(かみ)さまの(れい)聖霊(せいれい))の内在(ないざい)通し(とおし)て、(かみ)さまの永遠(えいえん)存在(そんざい)をも理解(りかい)するようにと、私たち(わたしたち)祈り続けます(いのりつづけます)イエス(いえす)(さま)サマリア(さまりあ)女性(じょせい)お与え(おあたえ)になった「(いのち)(みず)」についての先週(せんしゅう)福音(ふくいん)朗読(ろうどく)が、キリスト(きりすと)(さま)のうちにある洗礼(せんれい)について最も(もっとも)よく説明(せつめい)されているように、今日(きょう)キリスト(きりすと)(さま)において、まったく新しい(あたらしい)(いのち)始まる(はじまる)キリスト(きりすと)(さま)洗礼(せんれい)についてのとても特別(とくべつ)なことを学びます(まなびます)私たち(わたしたち)多く(おおく)の、そして、異なる(ことなる)方法(ほうほう)によって、閉ざされて(とざされて)いた私たち(わたしたち)()見える(みえる)ようになります。洗礼(せんれい)において、イエス(いえす)(さま)である(ひかり)体験(たいけん)するのです。私たち(わたしたち)は、イエス(いえす)(さま)()(ひかり)であることがわかります。

 

()(じゅん)(せつ)第四(だいよん)(しゅ)(じつ)は、「バラ(ばら)(しゅ)(じつ)」(喜び(よろこび)(しゅ)(じつ))とも呼ばれて(よばれて)います。私たち(わたしたち)(こころ)()を向けてくださる(かみ)さまの豊か(ゆたか)(あい)が、私たち(わたしたち)悲しみ(かなしみ)苦しみ(くるしみ)喜び(よろこび)平和(へいわ)変えて(かえて)くださるので、私たち(わたしたち)喜び(よろこび)満たされる(みたされる)からです。

 

⑴ 第一(だいいち)朗読(ろうどく)では、私たち(わたしたち)生活(せいかつ)(なか)で、人々(ひとびと)をどのように受け入れる(うけいれる)かについて、とても人間的(にんげんてき)なアプローチを思い出させます(おもいださせます)私たち(わたしたち)は、しばしば()(ひと)見て(みて)視て(みて)、そして、容姿(ようし)肉体(にくたい)のうわべから、もしかしたら、生活(せいかつ)レベル(れべる)出身地(しゅっしんち)(はだ)(いろ)をもとに判断(はんだん)します。私たち(わたしたち)は、しばしばとても物質的(ぶっしつてき)基準(きじゅん)で、多分(たぶん)、彼らからどうやって利益(りえき)得る(える)かを基準(きじゅん)にして、()人びと(ひとびと)をどのように判断(はんだん)するかのボーダーライン(ぼーだーらいん)作ります(つくります)(かみ)さまは、サムエル(さむえる)(かみ)さまが人間(にんげん)とは異なり(ことなり)(こころ)(なか)ご覧(ごらん)になるということを思い出させ(おもいださせ)ます。私たち(わたしたち)は、(こころ)(そこ)から自分(じぶん)自身(じしん)表現(ひょうげん)し、そして、(ほか)人々(ひとびと)(こころ)見る(みる)ようにと求められて(もとめられて)います。(わたし)たちは(みな)物質的(ぶっしつてき)基準(きじゅん)からでなく、友だち(ともだち)、そして、兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)となれるでしょう。私たち(わたしたち)祈り(いのり)満ちた(みちた)黙想(もくそう)初め(はじめ)段階(だんかい)で、私たち(わたしたち)肉体的(にくたいてき)基準(きじゅん)満たない(みたない)ような(ほか)人々(ひとびと)対して(たいして)(かみ)さまの癒し(いやし)(ちから)のうちに、私たち(わたしたち)(ほか)人々(ひとびと)へのプライド(ぷらいど)無関心さ(むかんしんさ)捨て去る(すてさる)ことができるように、(こころ)()開かせて(ひらかせて)いただけるように、(かみ)さまにより頼む(たのむ)よう招かれて(まねかれて)います。

 

⑵ 今日(きょう)福音(ふくいん)朗読(ろうどく)では、先週(せんしゅう)福音(ふくいん)にあったサマリア人(さまりあじん)女性(じょせい)(はなし)をされた(とき)同様(どうよう)イエス(いえす)(さま)意向(いこう)を知ることができます。今回(こんかい)は、生まれつき(うまれつき)()見えない(みえない)(ひと)癒す(いやす)という背景(はいけい)があります。()癒された(いやされた)(おとこ)は、イエス(いえす)(さま)(だれ)であるかを深く(ふかく)理解(りかい)するようになり、最終的(さいしゅうてき)イエス(いえす)(さま)救い(すくい)(ぬし)として信じました(しんじました)

 

私たち(わたしたち)は、(こころ)()開かせて(ひらかせて)くださった(かみ)さまに日々(ひび)感謝(かんしゃ)しています。生まれつき(うまれつき)()見えない(みえない)人々(ひとびと)もいれば、視力(しりょく)失った(うしなった)人々(ひとびと)もいるかもしれません。明確(めいかく)()見える(みえる)私たち(わたしたち)多く(おおく)は、視力(しりょく)なしで便利(べんり)生きる(いきる)(こと)想像(そうぞう)もできないかもしれません。そして、決して(けっして)そうは望みません(のぞみません)私たち(わたしたち)は、()見えない(みえない)兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)たちのために祈ります(いのります)

 

今日(きょう)福音(ふくいん)(なか)イエス(いえす)(さま)は、生まれつき(うまれつき)()見えない(みえない)(おとこ)癒された(いやされた)(あと)民衆(みんしゅう)何人(なんにん)かのファリサイ派(ふぁりさいは)の人々と対峙(たいじ)します。再び(ふたたび)イエス(いえす)(さま)にとって、(とく)ファリサイ派(ふぁりさいは)人々(ひとびと)()見えない(みえない)ことについて(はなし)をする最適(さいてき)(とき)でした。ファリサイ派(ふぁりさいは)人々(ひとびと)は、イエス(いえす)(さま)がおっしゃっている()見えない(みえない)ことをすぐには理解(りかい)できなかったかもしれません。このイエス(いえす)(さま)ファリサイ派(ふぁりさいは)人々(ひとびと)との対峙(たいじ)は、私たち(わたしたち)一人(ひとり)ひとりが熟考(じゅっこう)するのにも、とてもやりがいのある課題(かだい)かもしれません。確か(たしか)に、私たち(わたしたち)見える(みえる)」と言えば(いえば)言う(いう)ほど、実際(じっさい)には見て(みて)はいなくて、イエス(いえす)(さま)(なに)について話されて(はなされて)いるのか理解(りかい)できていないことが明らか(あきらか)になります。イエス(いえす)(さま)は、私たち(わたしたち)個人(こじん)共同体(きょうどうたい)()見えて(みえて)いないことについて、つまり、私たち(わたしたち)一部(いちぶ)ではなく、家族(かぞく)共同体(きょうどうたい)ではないと私たち(わたしたち)考えて(かんがえて)いる人々(ひとびと)への長年(ながねん)培われて(つちかわれて)いるプライド(ぷらいど)無関心さ(むかんしんさ)について話されて(はなされて)いるに違い(ちがい)ありません。()(じゅん)(せつ)のこの時期(じき)に、私たち(わたしたち)(つみ)とは(なん)なのかという私たち(わたしたち)理解(りかい)についての振り返り(ふりかえり)熟考(じゅっこう)しているかもしれません。ほとんどの私たち(わたしたち)にとって、(つみ)とは、(たん)法律(ほうりつ)書かれて(かかれて)いる事を破る(やぶる)こと、または、私たち(わたしたち)個人(こじん)個人(こじん)共同体(きょうどうたい)利己的(りこてき)メリット(めりっと)(もと)に、私たち(わたしたち)認めた(みとめた)ものを破る(やぶる)ことであると理解(りかい)するのは簡単(かんたん)です。このような理解(りかい)が、私たち(わたしたち)利己的(りこてき)理由(りゆう)によって、意図的(いとてき)人々(ひとびと)破壊(はかい)したり、傷つけたり(きずつけたり)するような(あい)のない行い(おこない)(つみ)であるという理解(りかい)取って代わる(とってかわる)ことがありませんように。

 

⑶ 第二(だいに)朗読(ろうどく)では、キリスト(きりすと)(さま)においての洗礼(せんれい)から輝く(かがやく)キリスト(きりすと)(さま)(ひかり)について強く(つよく)力説(りきせつ)されています。私たち(わたしたち)もまた、この日曜日(にちようび)喜び(よろこび)日曜日(にちようび)呼んで(よんで)いる所以(ゆえん)です。(せい)パウロ(ぱうろ)は、エフェソ(えふぇそ)人々(ひとびと)対して(たいして)表現(ひょうげん)豊か(ゆたか)です。私たち(わたしたち)暗闇(くらやみ)選ぶ(えらぶ)傾向(けいこう)は、(ひかり)()として生きる(いきる)ようにとの招き(まねき)よりも少ない(すくない)ことを、私たち(わたしたち)信仰(しんこう)は教えてくれます。(ひかり)は、(ぜん)寛大さ(かんだいさ)をもたらします。もし、(わたし)熟考(じゅっこう)するために()聖書(せいしょ)一説(いっせつ)引用(いんよう)するとすれば、同じく(おなじく)(せい)パウロ(ぱうろ)コリント(こりんと)信徒(しんと)への手紙(てがみ)です。「私たち(わたしたち)見える(みえる)ものではなく、見えない(みえない)ものに()を注ぎます。見える(みえる)ものは過ぎ去ります(すぎさります)が、見えない(みえない)ものは永遠(えいえん)存続(そんぞく)するからです。(コリント(こりんと)信徒(しんと)への手紙(てがみ)2 4:18)」

 

主任司祭 アルセ・エクソール・マグボー