四旬節第三主日
今日は四旬節第3主日です。私たちは、今日、全世界で復活徹夜祭に洗礼を受ける洗礼志願者も含めて教会に来ています。四旬節第4、第5主日にも、私たちはこの方々のために祈り続けましょう。今日の朗読を理解するための初めのポイントは、イエス様の非常に霊的な方法に従った、とても簡素で物質的な方法による、私たち個人個人と共同体の日常的な生活の経験です。イエス様は、「命の水」です。私たちは、「水」という中心的なテーマを私たちの洗礼にリンクするようにと招かれています。
⒈ 今日の出エジプト記の短い朗読は、(1)人々が、自分たちや子供たちや家畜が飲む水がないといってモーセに不満をいっている事に対して、(2)おそらく、最悪の場合、人々がモーセに対して彼に何かしようとしているという懸念に対して、神さまからモーセへの指示について語っています。今日の短い朗読では、モーセと神さまの民に対する神さまの導き、そして、神さまの民の指導者(この場合は、モーセ)に対する保護について理解できます。イエス様のご指示は明瞭でした。モーセは、水が湧き出るために岩を打ちましたが、イエス様は、人々とイエス様の民の指導者に、自分を信じるようにと言われていました。イエス様は、いつも私たちと共にいてくださり、信じられています。ですから、イエス様は、飲む人は誰でも決して渇くことのない命の水なのです。
現在とほとんど変わらない信仰共同体とその指導者に対する、旧約聖書のこの神さまのことばが四旬節のこの季節に与えられて、私たちが皆、私たちの洗礼の持つ意味について、より深く掘り下げるようにと招かれています。
⒉ イエス様は、私たちが本当に必要としているものをすべてご存じです。イエス様は、私たちにお与えになっているものを知ってほしいと望んでおられます。イエス様は、お与えくださった水を飲む人は、誰も決して再び渇くことはないと約束されました。今日の福音は、とても簡素で一見とても物質的な領域から非常に霊的な領域へと、イエス様の教えを導き出すことについてです。ほとんどの場合、イエス様は一見明らかな方法で弟子たちを招かれていますが、しばしば弟子たちは、これに囚われてしまい、より深い意味を理解することができないということが、私たちにはわかります。私たちも多くの先入観(私たちが生きている世界では多くの懸念)と騒がしさのために、神さまが私たちに何をお与えくださっているのかを理解できないことが多々あります!
今日の福音に出てくる女性もそうです。井戸に行く彼女の目的で頭がいっぱいになっているこの女性は、イエス様のことばに混乱してしまいます。しかしながら、後に私たちは、イエス様のことばの持つ力と、間違いなくイエス様の存在が、この女性に二度と再び渇くことのない水を求めるようにされたということに気づかされます。確かに、神さまのことばの持つ力は、私たちを神さまに近づけさせ、神さまだけを渇望し続けさせます。
この女性はサマリアの女です。その当時、サマリアの女性は差別を受けていたと、私たちは教えられてきました。彼女たちは、他の疎外された人々、経済的に貧しい人々、部外者や外国人、肉体的にも精神的にも虐待され、混乱している人々を象徴することすらあります。彼女たちは、長い間、神さまのことばから疎遠になっている人々を象徴するかもしれません。しかし、今日の福音を通して、イエス様は、確かに永遠のものだけを探し求め、渇望することは、すべての人々に対してであると言われています。私たちは皆、すべての人々に、この良い知らせを伝え広めるようにと召されています。
⒊ 第二朗読では、クリスチャンの喜びについて要約されています。私たちは、必ずだれよりもその他の何よりもイエス様を選ぶことに不安や困難を経験するでしょうが、私たちの主イエス・キリストを通して、私たちには神さまの平和があります。私たちが望む前に、私たちの心に聖霊が注がれているので、決して、失望は私たちの希望の最終的な結果ではありません。イエス様が初めに十字架の栄光を私たちに対して輝かせてくださいました。イエス様のみことばへの信仰によって、私たちは救われます。
洗礼志願者の方々、もちろん私たち皆、イエス様と話し、語り合った他のすべてのサマリア人たちの最後のことばを家に持ち帰りましょう。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです。」私たちに伝えられた信仰を私たち自身の信仰に、そして、私たちの共同体の信仰を共有しましょう。
主任司祭 アルセ・エクソール・マグボー